「妊活」という言葉に違和感を抱かなくなってきた近頃、不妊症と向き合うカップルが多く産婦人科を訪れる光景を目にするようになってきました。「赤ちゃんが欲しい」女性なら誰しも思うことであり、この手で抱きたいと願う切なる想いを胸に「不妊症」という診断を上手く理解できずに、悩み苦しみ、見えないゴールへ途方に暮れる患者の一人でありました。
現在私は、「不妊治療」というギャンブルに勝ちようやく2児の母親になれました。
妊娠までに至る経緯とその気持ちを綴りたいと思います。
子どもが欲しいと思って半年が経過
結婚して、すぐに子どもが欲しいとは思いませんでした。もう少ししてからと気持ちに余裕がありました。年齢は30歳、来年に出産出来ればいいやと少し高を括っていました。しかし、妊娠を希望してからも変わらず毎月やって来る生理に絶望感を抱き始めました。周りから「まだ、子どもができないの?」と何気なく言われるこの言葉が一層焦りに拍車をかけるのです。次々に自分の周りで妊娠し、出産していってしまう友人たち。「早く、赤ちゃん産んでね」お祝いに伺うと揃ってこう言いました。
自分は「不妊症ではない」そう言い聞かせながら、31歳を迎えて不妊外来に足を踏み入れました。
原因不明の不妊治療
仕事上、なかなか休みが取れなく、不妊治療に専念している病院も少ない中、夜19時まで診察してくれる病院に巡りあえました。
最初は、不妊の原因となる一通りの検査を行い、さらに激痛を伴う卵管造影検査もやりました。もちろんパートナーの検査も実施しています。
結果は、異常なし。その報告を聞いて安心したことを今でも覚えています。しかし、そこで新たな疑問が生じます。「じゃあ、原因は何?」主治医に伺うと、「原因不明の方が一番難しい、原因が分かれば、治療ができるのだけれども…、また、若いのだし、タイミング療法で様子をみましょう。」その言葉にすべてを託し、そのうち妊娠できると思って1年が経過しました。
「次のステップは人工授精をおすすめしますが、抵抗があるのならもう少し、大きな病院で詳しく調べてもらってください。」
そう言われ、32歳に大学病院で治療をする決断をしました。
ようやく原因が発覚するもの、襲いかかる再発
すぐに、紹介状を持って大学病院へ行きました。再び、同じ検査を一通り行いました。子どもが欲しい反面、金銭的なことも気になり始めた頃でした。そこで、意外な結果が出ました。
卵子の数を調べるAMHという検査で、41歳レベルの卵子の数の値であると判明したのです。つまり、私の子宮には卵子が残り少ないということです。かといって、劣化をしている訳ではないので、考え方によっては、今卵子を凍結しておくのも手だと1つの案をあげられたのです。その時は、人の手を借りてまでと拒否をしました。さらに以前の病院で子宮鏡の検査を行っておらず、その2か月後に実施すると、子宮内膜に数えきれないくらいの「多発性ポリープ」が存在していたのです。ただでさえ、妊娠しにくい挙句、これだけの数のポリープがあったらほぼ妊娠不可能と診断されました。結婚して2年が経過して、ようやく原因が究明されたのです。「今すぐ取ってください!」そう言うと、「緊急性がないからオペ室は順番待ちになります、生理とのタイミングに合わせますので、手術は3ヶ月後に予約を入れておきます。」生理が不順だった私のイヤな予感は的中しました。生理がズレたため、手術は中止、延期になったのです。次の手術の予約は2ヶ月後でした。
可能性を指摘され発見まで7ヶ月、ようやくその時を迎え、1泊2日の「子宮内膜ポリープ切除術」が行われました。これで、妊娠できると期待で胸がいっぱいになりました。その後の治療は、タイミング療法で半年様子をみました。しかし、その後も妊娠には至りませんでした。年齢に焦りを抱いていた私は、抵抗のあった次のステップに挑戦することに決めました。「人工授精」です。その後6回試みましたが、結果はクロ。「まさかとは思いますが、再度、子宮鏡の検査をしてみましょう。」この時点で私は33歳。
そのまさかが、的中。再度ポリープが再発していたのです。しかも、卵管を両方とも塞いでしまう状態の位置に再発していために、精子が卵管を通れなかったのです。
滅多に再発しにくいようですが、キノコと一緒で、根っこからえぐり取らないと再発も考えられます。ですが、えぐり過ぎれば子宮は破裂してしまい、最悪子宮ごと無くなってしまうのです。
再発時期は不明で、早い人では次の日にも元に戻るという驚異の腫瘍。
腫瘍を摘出して再発がいつ起こったのかわからないまま1年間の無駄な時間と無駄な治療は泡となっていたのです。
私は、この様ないたちごっこ的な事態を一刻も早く防ぐために、一気に体外受精に試みました。次の生理が来て、12個採卵し、11個の胚から最もグレードの高い胚盤胞移植を行いました。
そうして、33歳。遠回りはしたもののようやく私は、妊婦になれたのです。
34歳、無事に第一子を出産。
さすがに再発はないだろうと言われていましたが、その2年後に自ら子宮鏡の検査を希望したところ、やはり再発していました。
三度にわたる、「子宮内膜ポリープ切除術」。再発率の高い私には、自然妊娠という選択肢はありませんでしたので、残っていた凍結胚を子宮のコンディションと合わせてすぐに移植しました。
今回の妊娠は、はっきりとわかるくらい着床痛を感じたので、セルフでの妊娠検査薬を使わず病院で検査をしました。
そして、37歳で再び第二子を出産しました。
不妊治療を終えて
冒頭に、「不妊治療」を「ギャンブル」と例えました。現実的に不妊治療に重くのしかかる一番の悩みは、金銭的なことです。高度な治療になればなるほど、患者を一層苦しめます。ある意味、勢いや多額の投資といったことが必要となってきます。年数が経つにつれ、莫大な費用も付いてまわるのです。成功するかしないかわからない治療の心のよりどころはSNSを通した自分と同じ体験をしている方の書き込みを読んで共感し、希望を抱いていました。不妊症は経験した人しかわからない、どうにもならない想いをどこにぶつけていいのかわからない。私は、考え方ひとつだと思います。莫大な時間と費用を費やしましたが、こうして今、この腕の中に我が子がいる。この遠回りがなかったらこの子ではない子だったかもしれません。結果論かもしれませんが、いつかは手に入れられるそう思って治療に明け暮れました。また、いつかは終止符を打たければいけない時もくるでしょう。その時「あなたは十分立派なお母さんですよ」と声をかけてあげたいです。不妊治療に掛けた時間と費用は我が子に逢うために、お母さんが出来る限りの最善を尽くした証です。限界のある不妊治療ですが、今行っている時間は決して無駄ではないのです。子どもは親を選べないと言いますが、私は、そうは思いません。いつか選ばれたその時にやって来るのです。訪れるその時までもう少し待ってみませんか…。
最後に、不妊治療は終わりましたが、まだ終わってないことがあります。
それは、寒いところでひたすら待っている凍結胚たちです。
役目を終えた胚の行く末は「産業廃棄物」というゴミに変わるのです。
私は、その答えが出せないまま、再び途方に暮れています。